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2025年3月17日、COOLS佐藤秀光さんがご逝去されました。当社代表、ZAK柴崎からの追悼文です。
2025年3月17日午前10時7分にCOOLSの佐藤秀光氏が享年73歳でお亡くなりになりました。まずは株式会社サンダンスエンタープライズ一同、謹んでご冥福をお祈りいたします。
このブログをご覧になっている方はご存じだと思いますが、COOLSの創設メンバーであり、ショップのCHOPPER代表である故・佐藤秀光氏と当社代表のZAK柴崎の間には単なる先輩、後輩という枠を超えた深い絆がありました。時に恩人であり、時に友人であり、仕事仲間であり、……ZAK柴崎にとって佐藤秀光氏は自分の人生に大きな影響を与えたかけがえのない、良き兄貴分という存在でした。
ちなみに当社サンダンスが1982年に創業する際、背中を押したのも佐藤秀光氏だったとのことです。
以下からが当社代表の柴崎 “ZAK” 武彦から、今は亡き佐藤秀光氏にあてた追悼文となっております。みなさま、ぜひご一読ください。
まずはCOOLS、佐藤秀光氏の御冥福を心よりお祈り申し上げます。
ヒデさんとは、かれこれ45年以上の付き合いで、そもそもこのサンダンスを始めるにあたり、荒れた日常を過ごしていた20代初めの若造だったオレに色々助言をしてくれた存在がヒデさんでした。
ヒデさんの店『チョッパー』といえば、当時に大ブレイクしたロックンロールファッションの店で原宿、竹下通りのジュネスビルから明治通りと表参道の交差点近くのガゼットビルに移転して間もない頃で、一緒にバイクを走らせた後、チョッパー店舗の隣にあるビル二階の喫茶店で、オレの話を聞いてくれるという間柄でした。
そのヒデさんとの会話の中で忘れられないものがあります。
それは「能力のある人間は勝負すべき時に勝負をかけて、世に出るべきなんだ」という言葉です。
「世の中の大人の中には “オレは若い時に本当はこんなコトが出来たんだよ” とか “あんなことは簡単だよ” とか言う連中もいるけど、やってもいないことを “本当はやれた”とか大きなコトを言うヤツが多いだろ? けどシバザキよぉ、お前はそういうオヤジにだけはなるなよ。自分で力があって、能力がある人間ってのは世に出るべきなんだ。お前は技術があるんだから、自分で店をやりたいと思うんだったら、堂々とやれよ」。
そんな言葉に対して「技術には自信があるけど、店を経営するという部分に自信がない」とオレが告げると、80年代初頭当時のヒデさんはこうも応えてくれました。
「オレだって経営とかカネ勘定とかは自信がないけど、一応、このチョッパーという店も服やらグッズやらを売って、それなりに成功をおさめている。要はヤル気なんだよ。シバザキよ。渋谷のガード下とかに浮浪者とかいるだろ? でも、そういう連中でもミイラみたいに痩せこけているヤツがいるか? 今の日本って国はよ、浮浪者やっててもソコソコ食えるんだよ。何やってても食えるんだよ。恐るるに足らずだよ。ましてやヨ、真面目にやっていくんだったら、何があろうが食っていける。お前なら出来るよ」
そうヒデさんが言ってくれたこと。言葉に勇気をもらったことでサンダンスという店がスタートし、今に至っています。ヒデさんが背中を押してくれたことで度胸がついたのです。「そうだよな、オレにも出来るよな」とその時に思えたことで1982年の9月にサンダンスをオープンすることになったのです。
サンダンスをオープンした後もヒデさんは「どうだ?」って度々様子を見にきてくれたり、気にかけてくれたりしてくださいました。
最近はサンダンスで開催した「もちつき大会」にヒデさんをはじめ、ジェームスさんや郷田さんが来てくださったり、所さんの番組にヒデさんがオレの仲の良い先輩として一緒に出演してくださったり、ツーリングに参加してくださったりと思い出は尽きません。
ヒデさんも若い頃に比べて性格もかなり穏やかになり、逆にオレがプライベートなことで相談にのったり、バイク修理、整備やパーツ開発のお手伝いなどで公私に渡って良いお付き合いをさせていただいてました。
こうして少しずつ、若い頃の恩返しをしていた矢先の訃報は残念でなりません。
ヒデさんが亡くなった3月17日の月曜日、まだ体温があるうちに駆けつけることが出来ましたが、ヒデさんのご遺体と対面した事で、現実を直視しなければならなくなりました。今後はオレが想像する以上に、COOLSのメンバーやヒデさんのファン、関係する人々がヒデさんという存在の大きさを、より一層痛感すると思います。特にCOOLSのメンバーたちは、オレなどが伺い知れない程の強い絆で繋がっているはずなので。柴崎武彦個人としてもヒデさんがいなくなって、ただ寂しいですが、しかし、泣き言はいいません。
ヒデさんが亡くなった日、オレはクレイジーケンバンドの横山にも連絡を入れました。今は自転車屋を経営する田宮や、雑誌ライターのテッド黒川、アメリカ在住のハーピスト、Tex Nakamuraこと仲村哲也など、ヒデさんとの関係が長く深い後輩たちにも連絡を入れました。「ヒデさんを慕っている後輩たちは皆、それぞれの分野で一流だぞ‼︎ という部分をこれからもお互いに証明して行こうな!! 」 と。「そんなオレたちに慕われ、愛されたことが、ヒデさんの最大の誇りになるようにしよう!」 と。
だからより一層、オレたちは、襟を正し、上を目指す所存です。
ロボヘッドのトライクを創った当時、ヒデさんは「オレはHUNGRY GOD、何をやっても満足できない神という意味なんだ。そのオレが技術の神であるシバザキと組むとこんなものが出来るんだ」とどこかの記事でオレのことを神とまで言ってくれていたのですが、正直、オレ自身は神からは程遠い存在です。でも、そんな風にヒデさんが言ってくれたことが、仕事の面でも人間的にも一流であろうという戒めにもなっています。
ヒデさんが亡くなった当日、横山は福岡でライブをしているはずです。なのでオレ自身、偉そうに思いつつも彼に「一流の仕事をカマしてこい」と伝えました。彼も「オレたちはプロなんだ。悲しむよりプロの仕事で頑張ってきます」と言ってくれました。
ヒデさん、めそめそと下を向いている後輩は一人もいませんよ。
大切な先輩への弔いは、オレたちがそれぞれの分野で一流の仕事を見せることで証明していきます。これがサンダンス、柴崎武彦としてのヒデさんに対する弔辞となります。
日本ではイージーライダーの映画より、ピーター・フォンダよりも──COOLSの佐藤秀光という存在は遥かに、遥かに大きな影響を我々に与えてくれた、とんでもないデカい星だったと今さらながら思います。
ヒデさんが原宿という街でハーレーに乗っていなければ、このアメリカ製のオートバイは、この国でここまで流行り、愛されることはなかったとオレ自身は断言できます。バイカーであろうが、ロックンローラーであろうが、ハーレーというものを、日本という国の中で身近な憧れの乗り物として認識させてくれた存在は佐藤秀光という男であるとも思います。それは間違いありません。
その佐藤秀光という男が広めてくれたハーレーというバイクに対して、一流のプロとしての仕事を全うし、対峙することで、この先も敬愛する先輩に対する弔いとさせていただきます。
ヒデさん、本当にありがとうございました。
株式会社サンダンスエンタープライズ代表 柴﨑“ZAK”武彦 拝